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2018年5月19日 : 川島芳子は死んではいなかった

川島芳子のこと。1907年、「愛新覚羅けんし」と言う名で、北京にて第14王女として生まれた。後に、川島浪速の養女となり。「川島芳子」を名乗る。17歳でピストル自殺未遂事件を起こした。以後は断髪し、「女」を捨てた。「男装の麗人」と言われるようになる。日本軍の諜報活動に関係したとされるが真実は不明。・・・「スパイ容疑」で処刑されたとされる。
しかし、その時の処刑した兵士の証言では「あの時の銃は空砲だった」と言う。
川島芳子の親友に李香蘭「日本名、山口淑子」がいた。山口は日本人であるが中国人として芸能界で活躍「蘇州夜曲」のヒット曲をもつ。山口は戦後、日本へ帰国し、日本の芸能界でも活躍した。
ある時、山口淑子の自宅に中国から女性が訪ねてきた。用件を問うと。その女性は「うちの方おばちゃんが亡くなりました。方おばちゃんは、生前に、『自分が死んだら、これを日本の山口淑子さんに届けてくれ』と言っていました」と言って、一枚のレコードを差し出したという。山口はそれを見て、驚いた・・・。それは、かつて、山口が川島芳子にプレゼントした自分のレコードだった。更に、その方おばさんの写真をみたところ・・・歳をとってはいるが、まさしく川島芳子、その人だった。その女性の話しでは、方おばさんは、そのレコードを擦り切れるほどに何度も聴いていたという。
山口からこの事実を聞いた藤山愛一郎は周恩来に会いに行った。
藤山は聞いた「川島芳子は本当は死んではいなかったのでは?」すると、周恩来は、周りに人がいるため、躊躇いながらも「そんなことを、私が言えるわけないでしょう」と言いつつ、右手の親指と人差し指で輪を作っている。

尚、藤山が、怪訝な顔をしていたためか、周恩来は「私がそんなこと言えるわけないでしょう」と繰り返し、今度は右手の人差し指をグルグル回し始めた。「そうです」という明確な意思表示でした。
処刑されたはずの川島芳子は「方おばさん」として、地方で静かに余生を暮らしていたのです。
教えられた歴史は真実ばかりではないようです。
尚、この内容は数年前、落合莞爾氏の監修のもとテレ朝で放送されました。
方おばさんの死亡は1978年のことです。

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