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2014年10月6日 : 小野田寛郎氏の寄稿文章

終戦後29年間もフィリピンの奥地に隠れていた、小野田寛郎少尉。投降を呼びかけても出てこなかった。しかし、上官が出向き「任務解除」を告げると姿を現した。無骨で軍人らしい姿は日本人に感銘を与えた。やがて小野田氏はブラジルに移住し「小野田自然塾」を開校。2014年1月16日逝去された。
月刊誌「Will」11月増刊号に小野田氏の寄稿が掲載された。2005年に「正論」1月号に掲載された文章からの転載である。
小野田氏の文章は理知的で格調のあるもので、立派な方だったのだと推察される。
小野田氏によれば、「従軍看護婦」や「従軍記者」はいたが、「従軍慰安婦」というものはなかった、そのような言葉すらなかった。「従軍慰安婦」という言葉自体が造語であるという。対価を受け取って春を鬻ぐ慰安婦はいた。しかし、これは「売春婦」のこと。兵士にも性欲はある、戦地では廻りが敵ばかり、安心して外出もできない。だから、入り口に軍人が立って守っている施設に行く。決して性奴隷ではなかった。兵士は給料の3分の1を食費に、3分の1を郵便貯金に、3分の1を慰安婦に使った。当時は、慰安婦には日本人、朝鮮人、中国人がいたという。
そして、・・・「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ、戦場で「春を売る女性と、それを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたというだけのことである。・・・と結んでいる。
貴重な証言である。ご冥福を祈ります・・・。

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終戦後29年間もフィリピンの奥地に隠れていた、小野田寛郎少尉。投降を呼びかけても出てこなかった。しかし、上官が出向き「任務解除」を告げると姿を現した。無骨で軍人らしい姿は日本人に感銘を与えた。やがて小野田氏はブラジルに移住し「小野田自然塾」を開校。2014年1月16日逝去された。<br /><br />
月刊誌「Will」11月増刊号に小野田氏の寄稿が掲載された。2005年に「正論」の1月号からの転載である。<br /><br />
小野田氏の文章は理知的で格調のあるもので、立派な方だったのだと推察される。<br /><br />
小野田氏によれば、「従軍看護婦」や「従軍記者」はいたが、「従軍慰安婦」というものはなかった、そのような言葉すらなかった。「従軍慰安婦」という言葉自体が造語であるという。対価を受け取って春を鬻ぐ慰安婦はいた。しかし、これは「売春婦」のこと。兵士にも性欲はある、戦地では廻りが敵ばかり、安心して外出もできない。だから、入り口に軍人が立って守っている施設に行く。決して性奴隷ではなかった。兵士は給料の3分の1を食費に、3分の1を郵便貯金に、3分の1を慰安婦に使った。当時は、慰安婦には日本人、朝鮮人、中国人がいたという。<br /><br />
そして、「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ、戦場で「春を売る女性と、それを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたというだけのことである。・・・と結んでいる。<br /><br />
貴重な証言である。ご冥福を祈ります・・・。

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