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2014年12月8日 : 儒教における、罪と赦し

昨日につづき・・・儒教の教えについて。
「論語」にある故事。ある人が孔子に「我々の村には正直な人がいます。羊を盗んだ父親を告発しました」と話した。これを聴いた孔子は「私は、その人が正直な人とは思いません。父親は息子のために隠し、息子は父親のために隠す。これが本物の正直です」と答えた。「父親の悪事は隠せ」・・・ということ。同様に「国家の悪事も隠せ」と言うことに通じる。それが、本物の正直であり、国を愛する愛国者である。裏返せば、「敵国の悪いことは、大げさに言え」ということにもなる。これを前提とすれば中国の外交が理解できる。南京大虐殺、チベットの虐殺・・・。
また、親の受けた恨みは永遠に忘れてはならない・・・これも儒教の教え。親の恨みを忘れるのは「親不孝」である。だから、韓国の朴クネ大統領の「1,000年経っても恨みは消えない」発言になる。
儒教国家では罪を犯した者は、刑期を務め終えても、罪人であることには変わりがない。だから、永遠に罪びととして恨まれるし、蔑まれる。
キリスト教文化圏では刑期を終えれば、罪人ではなくなる。所謂「赦し」がある。
儒教の文化圏には「赦し」はない。・・・・戦争犯罪を認めた日本には、永遠に「赦し」はない。
従軍慰安婦、南京大虐殺・・・・完全否定しか、アジアでの、日本の生きる道はない。儒教を学べば、そうなる。
日本には「武士道」の精神が継承されてきた。潔さが前提であり。罪は潔く認め、償いをする。償えば、相手は必ず赦す・・・「禊」を受けたことになり。神にも人にも赦される。これは、どちらかと言えば、キリスト教に通じる精神である。
この違いが、日本と韓国、中国の外交において、大きな齟齬をもたらしてきたようである。

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